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2010/11/07 16:32
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景福宮
[景福宮] ブログ村キーワード
ソウル特別市鍾路区世宗路1-56
電話番号:02-732-1931
開場時間:3月〜10月 9:00∼18:00(入場は17時まで)
11月〜2月 9:00∼17:00(入場は16時まで)
休館日:火曜日
入場料:19〜64歳 :3,000ウォン (慶会樓特別観覧は5000ウォン)
7〜18歳 :1,500ウォン
6歳以下、65歳以上 :無料
ウェブサイト http://www.royalpalace.go.kr/ (韓国語・英語)
日本語案内:主要建物には日本語での説明あり
日本語無料ガイド案内:1日3回 10:00、12:30、14:30
交通:地下鉄3号線景福宮(キョンボックン、Gyeongbokgung)駅5番出口すぐ
※ 景福宮の入場券で国立民俗博物館、国立古宮博物館への入場が可能。
※ 2010年5月1日から1枚の統合観覧券で景福宮、昌徳宮(後苑を含む)、昌慶宮、徳寿宮、宗廟の観覧ができます。統合観覧券は10,000ウォンで、1ヶ月間有効です。
※ 慶会樓特別観覧:3〜10月(11:00、14:00、16:00の1日3回) <2010年8月15日より再開>。観覧所要時間:1〜2時間。館内で食事不可、ペットの入場不可
ソウルには、李氏朝鮮王朝時代を代表する景福宮、昌徳宮、昌慶宮、徳寿宮、慶煕宮の5つの宮殿があり、中でも、景福宮は、太祖(李成桂)が1395年(太祖4年)に建設したもので、歴史が最も古いだけでなく、規模も大きく、最高の宮殿とされている。
李氏朝鮮の開祖李成桂は,1392年に開城で即位し,2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)へ遷都した。王宮の建設にあたり,無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地として現在地が選ばれ、王宮の建設が始まった。
李氏朝鮮が建国された際開国一等功臣としてすべての権限を掌握し,その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどだった鄭道伝によって,王宮は,「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。その名の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、大きな幸せを意味し,王とその子孫、すべての百姓が太平の御代の大きな幸せを得ることを願って命名されたそうである。
その後,1553年に大火によって焼失したものの再建されたが,1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、小西行長や加藤清正らが率いる日本軍の入城を前に,朝鮮民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した。
文禄・慶長の役後は,離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されることはなかった。
朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が景福宮を再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年,高宗が親露政策を取り,ロシア公使館へ逃げ込んでそこで政務を執るようになった(露館播遷)ため、景福宮には王が不在となった。 その後,正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移ったため,景福宮が王宮として使用されることはなかった。
一方,1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮の敷地に、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が1912年から始まり、1925年に完成した。日本統治時代には,光化門は正面から移設され,敷地内の建物の多くが破却され,総督府の建物によって,王宮の建物は正面から見えなくなった。
李氏朝鮮以来の景福宮の景観変化と敷地への朝鮮総督府庁舎建設は,韓国人にとって歴史的屈辱の象徴とされており,韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は1986年から1995年まで博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により1996年に解体され,2025年には景福宮全体の復元事業が完了される予定である。
興礼門
興礼門
1916年に朝鮮総督府が建てられたことにより、撤去されたが、2001年10月、85年ぶりに興礼門と興礼門の周辺が復元され、昔の姿を取り戻した。
勤政門(宝物第812号)
景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年(高宗4年)、勤政殿とともに建立された。
勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていた。
興礼門と勤政門にわたる空間は、王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された。
勤政殿(国宝第223号)
勤政殿は、景福宮の正殿。、現存する最大の木造建築物。
勤政殿では、王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行われたり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われた。勤政殿の庭を朝廷と呼んだ。
勤政殿は、1395年(太祖4年)建立されたが、文禄・慶長の役で焼失。その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建した。
写真にあるように、石畳の両脇に官位順序列の標識が見える。
慶会楼(国宝第224号)
慶会楼は、国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待する宴会場。
1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されたが、文禄慶長の役で焼失。1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建。
慶会楼(国宝第224号)
前景の水面と、背後にそびえる北岳山と溶け合った光景はなかなかの絶景。
思政殿
勤政殿の後方に位置し、国王が御前会議を行い、各種政策を決定するなど臣下と国事を行っていた便殿。
勤政殿が国家の公式儀式が行われるところであるのに対し、思政殿は、王が普段政事を行ったところ。
思政殿には、「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められている。
思政殿
思政殿
千秋殿
思政殿の西側の便殿。
文禄・慶長の役で焼失したのを1865年(高宗2年)に再建。
国王が、学者と学問研究したところ。
康寧殿
国王が生活する寝殿。
康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば百姓も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられた。
康寧殿の東側には東小寝である延生殿、西小寝である慶成殿がある。
日本の植民地時代に撤去されたが、1994年に復元。
慶成殿
康寧殿の西側にある付属の小寝殿。
交泰殿
康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝殿。
王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理。
日本の植民地時代に撤去されたが、1994年に復元。
峨嵋山
交泰殿の裏にある人工庭園。
煙突は、交泰殿のオンドルにつながっている。
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