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韓流ブーム以来、身近に感じられるようになった韓国について、身の回りの韓国の話題を綴っていきたいと思っています。
また、韓国ドラマの紹介などもしていきたいと思っています。

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韓国旅行 その7 仁川国際空港から市内へ(KALリムジンバス)

2011/11/27 19:08
今回は,初めて大韓航空を利用しました。
関西空港発13時15分発で,ほぼ予定通り15時25分に仁川空港に到着しました。
前回は,金浦空港から地下鉄を利用しましたが,荷物を持って,途中乗換駅での移動に苦労しました。
そこで,今回は,仁川空港ということもあり,市内まで距離もありますので,KALリムジンバスを利用してみました。
チケット売り場は,乗り場近くの空港ビル内1階にあります。
仁川空港から市内まで15000ウォンです。
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乗り場(4B)の近くにあるチケット売り場でも購入できるようです。
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また,プリペイド式のT-moneyを利用して乗車することも可能のようです。
前回の旅行でT-Moneyを購入し今回も持参しましたが,残高がなくチャージする場所もわからなかったので,利用できませんでした。
バスは,20分から30の間隔で発車しますが,時刻は,KALリムジンバスのホームページでご確認の上ご利用下さい。
一般のバスよりも割高ですが,中はゆったりしており,シートは革張りですので,乗り心地もよく,市内まで1時間あまりの旅は快適です。
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今回利用した6701番ルートの市内までの経路は,仁川空港4B乗り場 → 仁川空港11A乗り場 → コリアナホテル → ザ・プラザホテル → ロッテホテルソウル(明洞)(75分) → ウェスティン朝鮮ホテルでした。
特に,ウェスティン朝鮮ホテルは1階玄関の車寄せに横付けでしたので,降車後ホテルに入るのが楽にすみました。
その他のホテルをご利用される場合は,コネクストのホームページなどでご確認下さい。

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韓国ドラマ その12 千秋太后(チョンチュ・テフ)

2011/01/15 23:56
千秋太后(チョンチュ・テフ) 
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 2009年1月3日から同年9月27日まで韓国KBS2にて放送された,総製作費220億ウォンの歴史大河ドラマ【全80話/字幕】
 千秋太后は,儒教勢力との政争に敗れ,不遇のうちにその生涯を閉じることとなったが,不倫の女性、権力欲に溺れた王妃として記録され,歴史の闇の中に消えていった。このドラマでは,千秋太后を新たな視点でとらえ,祖父王建の夢・大高句麗の理想を追い,北方へ進出し,外敵契丹の侵略に立ち向かうヒロインとして描いている。
<あらすじ>
 渤海を滅亡させ勢いづいていた契丹は、宋との大戦に備え,その前に背後の憂いをなくすため,高麗に侵攻してきた。当時,高麗は、儒教に心酔し、中国・宋との事大政策(大に事(つか)えるという外交政策)を推し進めた,千秋太后の兄の成宗の治世で,契丹を軽視して,宋と親交を結んでいた。
 80万の大軍を引き連れてきた契丹は,高麗に対し,降伏か、あるいは,昔の高句麗の土地を割譲するように要求してきた。
 これに対し,領土を割譲しようとする兄・成宗と,契丹との決死抗戦を主張する千秋太后との間で,政治的葛藤が生まれ,千秋太后が,「北で,兵士たちが血を流して戦っているのに,殿下は領土を与えて逃げるのか」と迫るのに対し,兄・成宗は,「民が血を流すことは許されない。領土よりも,我が民1人の血がもっと大切だ」と主張し,それぞれの高麗統治に対する政治的見解が違う葛藤の中で,二人は,対立と兄弟愛の間で苦しみながら,ドラマは展開していく。
<登場人物>
千秋太后(チョンチュ・テフ)役:チェ・シラ 
 本名は,皇甫壽(ファンボ・ス)。高麗の太祖・王建(ワンゴン)の孫娘で第5代・景宗の第3皇后献哀王后(ホネワンフ)となり,景宗の後継者第6代・成宗の妹でもあり,後の第7代・穆宗の母である(964〜1029)。
 大高麗という理想のため,兄と対立した。964年太祖の息子戴宗旭と宣義(ソニ)王后の間に生まれた。母宣義(ソニ)王后が早くに他界すると,兄弟たちとともに,祖母・神静(シンジョン)皇太后皇甫(ファンボ<太祖の第4妃>)に育てられる。
 兄は,第6代高麗国王成宗になる王治(ワンチ)であり,妹は,第8代高麗国王である顕宗(けんそう)の母である献貞(ホンジョン)皇后皇甫雪(ファンボ・ソル)である。
 歴史上は,18歳の時、夫の景宗が亡くなり、未亡人となり,夫亡き後、彼女が居住する千秋殿に外戚の金致陽(キム・チヤン)が頻繁に出入りするようになり、醜聞が広まるや、成宗が金致陽を遠島に処した。
 成宗が世継ぎのないまま死去すると、ファンボ・スの幼い息子が即位し、第7代穆宗となった。ファンボ・スが幼い国王を補佐して摂政になると、彼女が起居していた宮殿の名称から千秋太后(チョンチュ・テフ)と呼ばれる。この時から12年間、波乱の摂政時代が始まった。この間,配流地から金致陽を呼び戻し、自分の愛人とし,二人の間に生まれた子を穆宗の後継者にしようとして,1009年2月、康兆が政変を起こし、穆宗に退位を強要して、金致陽の一派を全員斬首した。その後,千秋太后は皇甫一族の故郷黄州(ファンジュ)に逃れ、そこで21年を生き延びた後、66年の波乱の生涯を閉じた。
 ドラマで,ファンボ・スは,王に挨拶をして帰る道で、弓術大会が開かれる事を知り男装をして参加する。一方、自分の妹が連れ去れていた事を知った康兆(カンジョ)は、弓術会場に妹を助けに行く。ここで,ファンボ・スは,康兆(カンジョ)を弓で狙っている相手の人の目を、横で見ていたボスが射るのである。その時、迫害を受け続けていた渤海流民達の暴動が起きる。そこに巻き込まれてしまったファンボ・スは、姜邯賛(カン・ガムチャン)に助けられる。こうして,ファンボ・スは,康兆(カンジョ)と姜邯賛(カン・ガムチャン)に出会う。その後,ファンボ・スは,祖母の教訓により,高句麗人、渤海人、新羅人を統合する大帝国高麗を夢見,これに共感した二人とともに、夢の実現に取り組むことになる。
 兄・成宗が世継ぎのないまま死去すると、ファンボ・スの幼い息子が即位し、第7代穆宗となり,ファンボ・スは,幼い国王を補佐して摂政になる。彼女が起居していた宮殿(千秋殿)の名称から千秋太后(チョンチュ・テフ)と呼ばれるようになり,その摂政時代の12年間、彼女が天下に号令する波乱の時代が訪れるが,愛人金致陽(キム・チヤン)の裏切り(謀反)により,道半ばにして失脚し,大帝国高麗は,夢と潰えることになる。

金致陽(キム・チヤン)役:キム・ソックン 
 歴史上,千秋太后の愛人として,太后との間にもうけた子を王位につけようとした野心家とのみ記されている人物。ドラマでは,新羅王族の子孫で,新羅の復興を夢見て,千秋太后を利用するため,彼女に近付くが,彼女を愛してしまうという設定。
 
康兆(カンジョ)役:チェ・ジェソン 
 歴史上,康兆の政変(1009年)を起こし,第7代・穆宗を殺害し、千秋太后を追放することによって,1010年契丹の第二次侵攻の口実を作ってしまい、契丹軍との戦いに敗れて生け捕りになり、殺された。
 ドラマでは,ファンボ・スの娘時代に出会い,密かに恋心を抱きながら,最後の死の瞬間まで,ファンボ・スを守り抜き,彼女のためにならどんな苦痛も耐える男として描かれる。
姜邯賛(カン・ガムチャン)役:イ・ドクファ 
 歴史上,1018年,亀州で,遼の聖王が差し向けた9万の兵を倒し,高麗を大勝(亀州大捷(キジュデチョプ,韓国史三大大勝の1つ>)に導いた名将。
 ドラマでは,高麗の名臣、太祖王健を助けて功を立てた三韓碧山功臣グンジンの息子で,光宗の豪族首切り政策に巻き込まれて家が沒落し、17歳の時から世の中を放浪しながら暮し,やがて,粛清で辛酸をなめたファンボ・スの祖母・神静(シンジョン)皇太后に気に入られ,明福宮で暮らすことになる。盟友王郁(ワン・ウク,慶州院君<キョンジュワングン>)とともに,政争を避けていたが,持ち前の侠気と優れた武術でファンボ・スを助け,次第に,不遇時代に培った政局を見極める確かな目で,王朝を率いる中心人物となっていき,政治に未練を残す,千秋太后に引導を渡す役割をも果たす。
※ その他の韓国史・三大大勝
 ○ 乙支文徳(ウルチムンドク)の薩水大捷(サルスデチョプ)−淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)に登場
 ○ 李舜臣(イスンシン)の閑子山島大捷
 
王郁(ワン・ウク,慶州院君<キョンジュワングン>)役:キム・ホジン  
 太祖の八番目の息子で母親は新羅ギョンスン王の叔父キム・オクリョムの娘であるシンソン王太后金氏。
 新羅系官僚は,ファンボ家の人間である王治(ワンチ。後の成宗)よりは,新羅系のシンソン王后金氏を母に持つワンウクを後継に考えたが,彼には権勢欲がなく,王になりたくもなく、政治に関わりたい気持ちも全くないため,結局は,王治(ワンチ)を推し,即位させる。
 王郁(ワン・ウク)は,景宗の死後、明福宮に戻ったファンボ・ソルに再会し,愛するようになり,駆け落ちして,彼女との間に顕宗をもうける。 
献貞(ホンジョン)王后<皇甫雪(ファンボ・ソル)>役:シネ  
 千秋太后の妹で、顕宗の母。千秋太后とともに,景宗の王后(第4妃)になるが,景宗の死後にワンウクとの間に顕宗を生む。清く明るい性格で幼い頃から姉であるファンボ・スや兄である成宗に愛される。
 幼い頃、渤海流民事件で出会った王郁(ワン・ウク)に片思いする。ところがその片思いは景宗に嫁げという祖母・神静(シンジョン)皇太后の命令で遂げられなかった。しかし景宗の死後、明福宮に戻り,王郁(ワン・ウク)に再会し,駆け落ちして,顕宗をもうける。
成宗(せいそう、960年−997年。王治<ワン・チ>,黄州院君。)役:チェ・ウヒョク/キム・ミョンス
 第6代高麗王(在位:981年−997年)。
 父は王旭(追尊して戴宗)、母は宣義王后柳氏。景宗の従弟に当たる。
 行政改革を推進し、高麗建国時から濃かった仏教色を排除し儒教の普及のため各地に学堂を建てた。993年遼の侵攻を受けた際には、外交交渉で軍勢を退け、高麗は鴨緑江東部の江東6州を得た。995年契丹の侵攻を受けると、宋との関係を断絶し契丹と外交関係を結んだ。男子がいなかったため、先代の景宗の長男・穆宗に受け継がれた。
 ドラマでは,民の平穏な暮らしを願い平和主義を掲げ,これに対し,大高麗を掲げ北方への侵攻を標榜し,軍備の増強を主張する妹・千秋太后と激しく対立し,兄弟愛との葛藤の中で苦しむ姿が描かれる。
穆宗(ぼくそう,980年−1009年。王誦<ワン・ソン>)役:パク・チビン/イ・イソン
 第7代高麗王(在位:997年−1009年)。
 第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后(千秋太后)。
 景宗死去の時は1歳であったため,母の兄・王治(ワンチ)が第6代成宗として即位する。成宗には世継ぎの男子がなく,死去したことから,その後を継いで即死するが,即位後は,母の千秋太后が政治の実権を握り、その寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。2人は,王位継承の可能性のある大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止しようとした。しかし、康兆は金致陽一派を倒した後、大良院君を擁立し、穆宗は廃位、殺害された。
 ドラマでは,景宗が,成宗に対し,我が子・穆宗に後を譲るように約束させて死去し,成宗にも世継ぎの男子が産まれなかったことから,成宗は,穆宗を母・千秋太后から引き離し,自分の元で太子として育てる。穆宗は,幼い頃は,母子を引き裂かれて育った境遇に苦悩し,即位後は,母・千秋太后が政治の実権を握り、その寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいて,母や金致陽に反発しつつ,鬱々とした日々を送る中,身を持ち崩していく。ようやく,大良院君(顕宗)に譲位し,母とも和解し,平穏な生活が訪れると思っていたところ,顕宗を推す一派に暗殺される。
顕宗(けんそう、992年−1031年,王詢<ワン・スン>,大良院君<テリョワングン>)役:キム・ジフン 
 第8代高麗王(在位:1009年−1031年)。
 太祖の孫で、父は王郁、母は献貞王后(=孝粛太后)皇甫氏。顕宗は,母・献貞王后が景宗の死後,父・王郁との間で生まれたのであったが,当時は不倫の子とされ,子供の時から不遇に育った。
 母・献貞王后は,顕宗を生んだ後に病死し、父は流刑となったため、当時の国王成宗(顕宗の伯父に当たる)が彼を王宮で養育した。その後、成宗は子供を父に返した方が良いと考えて王郁に返したが、王郁も顕宗が4歳の時に死んだ(ドラマでは,金致陽(キム・チヤン)に暗殺される)。
 997年、穆宗は,成宗を後を継いで即位したが,男子がなく、顕宗を次の王にしようと考え,1003年、顕宗は大良院君に冊封された。
 しかし穆宗の母の千秋太后は、金致陽との間に生まれた息子(穆宗の異父弟)を次の王に擁立しようとして、1006年に顕宗を強制的に寺院に追い出し,その後,暗殺を何度も試みたが失敗した。1009年2月、康兆が政変を起こし、穆宗に退位を強要して、金致陽の一派を全員斬首し,顕宗が大臣たちの推戴を受けて,18歳で即位した。
 即位後は,姜邯賛らの活躍により,2度にわたる契丹の侵攻を退け,高麗の繁栄の基礎を築く。

ドラマの頃の朝鮮半島情勢 
 918年,王建(太祖)が高麗(こうらい)を建国,1392年李成桂が朝鮮王朝建国するまで続いた。都は開城。
 朝鮮半島を統一した新羅は,8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き,地方でも農民が反乱を起こし,混乱を招き,地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させ,892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗を建国して,これ以降を後三国時代と呼ばれる時代に入る。
 後高句麗の将軍であった王建は,弓裔の暴政に対して政変を起こし、918年に高麗を興した。その後,935年11月、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順し,高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島を統一した。
 その間、916年,北方民族の契丹が遼を建国し,926年には,渤海を滅ぼす。
 高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、その版図を広げる一方,中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。
 宋は,漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに993年から高麗に対し大規模な侵攻を行う。
 高麗は,これを撃退し,江東6州の高麗への割譲と引き換えに翌994年から,契丹に朝貢した。
 契丹は,1009年に高麗で康兆の政変が起きると、この隙を突いて1010年に再度高麗に侵攻し、開城に攻め込むが,高麗の姜邯賛は、開城を明け渡し高麗王も羅州に避難する策を講じため,契丹軍は開城に入城するも,補給に困難が生じ,撤退を余儀なくされた。
 姜邯賛は,要所要所に伏兵を配置し、撤退する契丹軍に反撃を加えて勝利した。
 その後も,契丹は,1013年から1016年まで継続して侵入するが,高麗はいずれもこれを撃退する。
 1018年、蘇排押率いる10万(9万ともいわれる)の契丹軍が高麗に侵攻してくるが,姜邯賛率いる高麗軍14万(9万数千ともいわれる)が鴨緑江と亀城にてこれを迎え撃ち、大勝利を収めた(亀州大捷)。
 契丹は,度重なる敗北で,高麗への侵攻をあきらめ,高麗からの使節を受け容れ,1020年には講和を結び、1022年に高麗は契丹の年号を用いて朝貢し、契丹は高麗の江東六州領有を認めた。
 その後、契丹は,西方のウイグルに向かったため,女真族が台頭し,女真は,1115年に金を建国,1125年に遼を滅ぼした。
 そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けず,国内はおおむね安定していた。
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海鮮チゲ アジェ 閉店?

2010/12/01 00:37
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11月28日、以前ご紹介した韓国料理店 その18 「海鮮チゲ アジェ」(京都)を久しぶりに訪ねたところ、お店の看板もなく、電話を掛けても、使用停止になっていました。

どちらかへ移転されたのか?
閉店されてしまったのか?わかりません。

どなたかご存じの方は教えていただけないでしょうか。
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東大門と南大門

2010/11/13 22:21
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 1392年に李氏朝鮮を建て漢城に遷都した太祖・李成桂は、1395年に都を守るため,城郭(ソウル城郭)の建設に着手し、北岳山,仁王山,南山,駱山をつなぐ18.9キロに達する城壁を築造した。城郭には,戦争に備え人々の出入りを統制したり盗賊を防止したりするために,東西南北に四大門,その間に四小門が設けられた。
 四大門の名前は,儒学の徳目である“仁義礼智信”から一字ずつをとり,東西南北,それぞれ,興仁之門、敦義門、崇礼門、粛靖門(智の代わりに靖を使った)と名付けられた。
 なお,”信”については,高宗時代に,ソウルの中心だった“普信閣”の名前に使われた。
 また,他の四大門の名前が三文字であるのに対し、東の興仁之門だけが四文字となったのは,これは風水地理によると、ソウルの東の地気が弱いため、その気を高めるため四文字とされたそうである。
 四小門は,北東側と南東側に弘化門と光熙門、北西側と南西側に彰義門と昭徳門が設けられている。
 四大門のうち,一般に東大門(トンデムン)と称される興仁之門(こうじんしもん・フンインジムン)は、1396年に創建され、1453年(端宗 元年)に修繕,1869年(高宗6年)に改築されている。大韓民国指定宝物第1号に指定されている。

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東大門(トンデムン)

 また,一般に南大門(ナンデムン)の通称される崇礼門は,1398年に創建されたが,四大門の中で最も規模が大きかった。世宗治世の1448年、成宗治世の1479年に大きく改築され、炎の形に似ている冠岳山の火気を遮るようにと二階建てとされるとともに,風水的措置として,讓寧大君が書いたとされる懸板は、城門を塞いで火気を遮るために縦書きにされた。
 その後、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)や丙子胡乱など幾多の戦乱を経たが,長い間、都城の正門としての役割を果たしてきた。
 朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れ,破損した部分の大規模な解体、改修工事が1962年に行われた後、同年12月20日に改めて、同国の「国宝第1号」に指定され,ソウルで最古の木造建築であったが,2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分を焼失した。
 復元工事は2010年2月10日に工事が着工し、2012年12月に復元予定。

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焼失前の南大門(ナンデムン)
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景福宮

2010/11/07 16:32
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景福宮

[景福宮] ブログ村キーワード

ソウル特別市鍾路区世宗路1-56
電話番号:02-732-1931
開場時間:3月〜10月 9:00∼18:00(入場は17時まで)
     11月〜2月 9:00∼17:00(入場は16時まで)
休館日:火曜日
入場料:19〜64歳 :3,000ウォン (慶会樓特別観覧は5000ウォン)
    7〜18歳 :1,500ウォン
    6歳以下、65歳以上 :無料
ウェブサイト http://www.royalpalace.go.kr/ (韓国語・英語)
日本語案内:主要建物には日本語での説明あり
日本語無料ガイド案内:1日3回 10:00、12:30、14:30
交通:地下鉄3号線景福宮(キョンボックン、Gyeongbokgung)駅5番出口すぐ

※ 景福宮の入場券で国立民俗博物館、国立古宮博物館への入場が可能。
※ 2010年5月1日から1枚の統合観覧券で景福宮、昌徳宮(後苑を含む)、昌慶宮、徳寿宮、宗廟の観覧ができます。統合観覧券は10,000ウォンで、1ヶ月間有効です。
※ 慶会樓特別観覧:3〜10月(11:00、14:00、16:00の1日3回)  <2010年8月15日より再開>。観覧所要時間:1〜2時間。館内で食事不可、ペットの入場不可

 ソウルには、李氏朝鮮王朝時代を代表する景福宮、昌徳宮、昌慶宮、徳寿宮、慶煕宮の5つの宮殿があり、中でも、景福宮は、太祖(李成桂)が1395年(太祖4年)に建設したもので、歴史が最も古いだけでなく、規模も大きく、最高の宮殿とされている。
 李氏朝鮮の開祖李成桂は,1392年に開城で即位し,2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)へ遷都した。王宮の建設にあたり,無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地として現在地が選ばれ、王宮の建設が始まった。
 李氏朝鮮が建国された際開国一等功臣としてすべての権限を掌握し,その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどだった鄭道伝によって,王宮は,「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。その名の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、大きな幸せを意味し,王とその子孫、すべての百姓が太平の御代の大きな幸せを得ることを願って命名されたそうである。
 その後,1553年に大火によって焼失したものの再建されたが,1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、小西行長や加藤清正らが率いる日本軍の入城を前に,朝鮮民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した。
 文禄・慶長の役後は,離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されることはなかった。
 朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が景福宮を再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年,高宗が親露政策を取り,ロシア公使館へ逃げ込んでそこで政務を執るようになった(露館播遷)ため、景福宮には王が不在となった。 その後,正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移ったため,景福宮が王宮として使用されることはなかった。
 一方,1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮の敷地に、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が1912年から始まり、1925年に完成した。日本統治時代には,光化門は正面から移設され,敷地内の建物の多くが破却され,総督府の建物によって,王宮の建物は正面から見えなくなった。
 李氏朝鮮以来の景福宮の景観変化と敷地への朝鮮総督府庁舎建設は,韓国人にとって歴史的屈辱の象徴とされており,韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は1986年から1995年まで博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により1996年に解体され,2025年には景福宮全体の復元事業が完了される予定である。

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興礼門

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興礼門
 1916年に朝鮮総督府が建てられたことにより、撤去されたが、2001年10月、85年ぶりに興礼門と興礼門の周辺が復元され、昔の姿を取り戻した。

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勤政門(宝物第812号)
景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年(高宗4年)、勤政殿とともに建立された。
勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていた。
興礼門と勤政門にわたる空間は、王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された。

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勤政殿(国宝第223号)
 勤政殿は、景福宮の正殿。、現存する最大の木造建築物。
 勤政殿では、王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行われたり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われた。勤政殿の庭を朝廷と呼んだ。
 勤政殿は、1395年(太祖4年)建立されたが、文禄・慶長の役で焼失。その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建した。
 写真にあるように、石畳の両脇に官位順序列の標識が見える。

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慶会楼(国宝第224号)
 慶会楼は、国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待する宴会場。
 1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されたが、文禄慶長の役で焼失。1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建。

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慶会楼(国宝第224号)
前景の水面と、背後にそびえる北岳山と溶け合った光景はなかなかの絶景。

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思政殿
 勤政殿の後方に位置し、国王が御前会議を行い、各種政策を決定するなど臣下と国事を行っていた便殿。
 勤政殿が国家の公式儀式が行われるところであるのに対し、思政殿は、王が普段政事を行ったところ。
 思政殿には、「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められている。

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思政殿

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思政殿

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千秋殿
 思政殿の西側の便殿。
 文禄・慶長の役で焼失したのを1865年(高宗2年)に再建。
 国王が、学者と学問研究したところ。

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康寧殿
 国王が生活する寝殿。
 康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば百姓も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられた。
 康寧殿の東側には東小寝である延生殿、西小寝である慶成殿がある。
 日本の植民地時代に撤去されたが、1994年に復元。

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慶成殿
康寧殿の西側にある付属の小寝殿。

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交泰殿
 康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝殿。
 王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理。
 日本の植民地時代に撤去されたが、1994年に復元。

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峨嵋山 
 交泰殿の裏にある人工庭園。
 煙突は、交泰殿のオンドルにつながっている。
 
 


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韓国旅行 その6 徳寿宮

2010/10/29 23:34
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徳寿宮
 徳寿宮は、1470年、李氏朝鮮第9代王成宗の兄月山大君の邸宅として建てられたことに始まる。
 その後、徳寿宮は、李氏朝鮮時代、2度宮殿として使用された。
 文禄・慶長の役の際、第14代宣祖は、一時避難から帰ったものの、秀吉軍に昌徳宮を消失させられため、住む宮殿がなく、、臨時の宮殿をここに置き、貞陵洞行宮とした。
 その後、1615年に、第15代光海君が、昌徳宮を宮殿として再建し移り住んだため、貞陵洞行宮を新しく慶雲宮と名付けた。
 ここが再び宮殿として使用されたのは、李氏朝鮮末期、日本に対抗するため親露政策をとり、ロシア公使館に避難していた高宗が、多くの権益をロシアに奪われたため、民衆から反発を受け、ロシア公使館を出て慶雲宮に移り住んだときである。
 自主独立の動きに押され、高宗は1897年10月12日、朝鮮初となる皇帝に即位、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とし、皇帝親政による独立国家への動きを示した。高宗は、国威の向上を図り、その施策に即して、慶雲宮の立て直しを進め、当時宮殿は、現在の貞洞と市長前の広場一体を含む、現在の領域の3倍の規模に達した。
 しかし、西欧列強に朝鮮での権益を認めさせた日本が、朝鮮への支配を強め、1907年7月、高宗を退位に追い込み、皇太子(純宗)に譲位させた。
 皇位を継いだ純宗が昌徳宮に移り住み、慶雲宮に残った高宗に対して、その長寿を祈って、「徳寿」という宮号(功徳を称えて捧げる称号)を捧げたことから、それがそのまま宮殿の名となった。
 徳寿宮は、他の宮殿と異なり、西洋建築物を宮殿内に取り入れているのが特徴である。高宗時代、西欧列強の外交官や宣教師が徳寿宮周辺に移り住み、その影響で、徳寿宮も西洋近代文物を吸収していたが、西洋建築を取り入れたのもこういった時代の雰囲気が影響していた。
 徳寿宮は、ソウルの中心街にありながら、都会の喧噪を忘れさせるオアシスのようなところで、散策を楽しみ、歴史に思いをはせてはいかがでしょうか。
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大漢門(徳寿宮の東門。正門として使用された) 
春から秋にかけて王宮衛兵守門将の交代儀式が再現される。

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                   中和門
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                   中和殿(正殿)

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 中和殿の左側の木の向こう側に見える低い白い建物が西洋建築物の石造殿
 徳寿宮の特徴をよく調べずに訪問したため、ここの特徴である西洋建築物の写真をきちんと撮影できず、申し訳ありませんでした。  

ソウル特別市中区太平路58
02−771−9952
観覧時間:9:00−21:00
休場日:毎週月曜日
観覧料金:大人(19歳以上)1000ウォン
     青少年(7歳〜18歳)500ウォン
日本語の案内:火〜金 9:30 16:00
          土、日 9:30
ホームページ
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韓国旅行 その5 圜丘壇(ホァングダン)

2010/10/27 22:57
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ウェスティン朝鮮ホテルの敷地内に圜丘壇(ホァングダン)という史跡があります。
これは、皇帝が祭祀を行う場所で、祭祀は皇帝のみが行えるとされていたため、清の冊封体制下にあった李氏朝鮮時代は祭祀を行えなかったが、日清戦争後、清から独立し、大韓帝国となり、祭祀を行うようになった場所です。

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<史跡の説明書きより>
圜丘壇(ホァングダン)
指定番号:史跡第157号
時代:1897年(光武元年)
所在地:ソウル特別市中区小公洞87−1番地

 圜丘壇は,皇帝が天に祭祀を行う場所で,皇壇又は円丘壇ともいう。
 朝鮮後期には,この場所に中国の使臣を迎えた南別宮があったが,高宗(1852−1919)が1897年に皇帝に即位するにあたり,帝国の礼法に則り圜丘壇を建設した。
 1897年(光武元年)10月に完工された圜丘壇は祭祀を行う3段の円形の祭壇と転の神の位牌を祭る3階建ての八角形の建物である皇穹宇,石鼓と門などで構成されていた。
 日帝強占期の1913年に朝鮮総督府は,皇穹宇,石鼓,三門,夾門を除いた圜丘壇の諸施設を撤去し,その場所に朝鮮京城鉄道ホテルを建てた。

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<史跡の説明書きより>
石 鼓
石鼓は,光武6年(1902年)高宗皇帝の即位40周年を記念して造られたものである。3つの石の太鼓は,天に祭祀を行うときに使う楽器を形象化したもので,胴の部分には竜が彫られている。この竜の彫り物は,朝鮮王朝末期の彫刻を理解する上で重要な資料であり,当時の彫刻の中でも最高の作品の一つとして評価されている。

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